院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


運動靴と赤い金魚

 

「心の琴線に触れる映画は?」と問われれば、まずこの映画をあげる。いや「琴線に触れる」という表現は少しそぐわない。この言葉自体は繊細で好きな言い回しであるが、私とこの映画の関係を言い表すには、「触れる」というゆかしい表現でさえ、直接的過ぎるような気がするのだ。全く異なる文化を背景に持つ、太さも張力も違う弦と弦が、子供の純真さや人間の優しさを媒体として、奇跡的に共鳴しあう。そんな映画である。ネタばれ的な記述もあるので、少しでもこの映画に興味のある人は、この文章を読むのを早々に切り上げて、レンタルビデオ屋さんへ急いだ方がよろしいかと老婆心ながら思う次第。

さてこの映画は、一九九七年に作られたイラン映画で、数々の国際映画賞を受賞しているまさに知る人ぞ知る、裏を返せば、知らない人はまったく知らない映画である。私も何の知識もなく、レンタルビデオ屋さんで、そのタイトルの秀逸さに誘われて衝動借りした一人だ。原題は「Bacheha-Ya Aseman」で日本語に直訳すると「天国の子供たち」。タイトルが原題の直訳版だったら私とこの映画の出会いはなかったであろう。タイトルって大事だなあとつくづく思う。

主人公のアリは九歳の男の子。靴屋に修繕してもらった妹の靴を、八百屋の軒先にちょっと置いていたところ、知らないうちに廃品回収のおじさんに持ち去られてしまう。アリの家は貧乏で、アリも妹のザーラも一足しか靴がない。なくしたからと買ってもらえるような経済的余裕が無いことは兄妹がよく知っている。「もう学校へ行けない」と妹が泣く。アリの提案で、靴をなくしたことは親には内緒で、アリの靴を二人で共有することになった。イスラム教の国であるイランでは小学校でも男女別々の学校で、妹が午前のみの学校、兄が午後から始まる学校なのである。妹が学校から帰る時間と、兄の学校の始まる時間にはあまり余裕が無い。ザーラはアリの靴で学校へ行き、終わると待ち合わせ場所まで走り、そこで兄の履いているスリッパと靴を履き替える。兄は大急ぎで学校まで走るのだが、何度か遅刻して校長先生に怒られてしまう。この映画には心に残るいくつかのエピソードが挿入される。アリたちの家族の住む共同住宅の中庭には、コンクリートで造られた丸い池があり、そこには共同の水道がある。そこで洗濯をしたり野菜を洗ったりするのだが、その中庭でアリの汚れた靴をザーラと二人で洗うシーン。靴を洗いながら、二人はシャボン玉遊びを始める。午後の暖かな日差しを受けてシャボン玉が虹色に輝いて美しい。貧乏は二人を蝕んではいない。むしろ貧乏であるが故に彼らは輝いていて、明るい未来・希望に満ちた将来をシャボン玉が暗示しているようだ。数日後ザーラは学校で自分の靴を発見する。ひとつ年下の女の子が履いていたのだ。ザーラはその場では問いつめず、後でアリとともに靴を取り返しに行く。少し離れた場所から観察していると、彼女の家族も自分たちと同じくらい慎ましやかな暮らしぶりであることを知る。二人はその場からすごすごと引き返す。自分たちの都合より他人の事情を思いやる、なんて心優しい兄妹なのだろう。
 
 一足の運動靴を二人で共有する日々が何日か続いたあと、マラソン大会が開催されることになった。三等の副賞は運動靴だ。どうにか代表の座を獲得したアリは、「絶対三等になって運動靴を手に入れる。そして靴屋で女の子用の靴に交換してもらうから。」と妹に言う。ザーラは目をきらきらさせて微笑む。さて大会本番。序盤は調子の出なかったアリだが、徐々に順位を上げていく。一足の靴を共有するために走って学校に通ったことが、持久力をつける訓練になったのだ。妹に新しい靴をプレゼントするためにアリは必死に走る。レースは思わぬ接戦となり、五人がなだれ込むようにゴール。駆けつけた体育教師と校長先生にアリが聞く。「僕三等になった?」「一等だ。でかしたぞ!」アリは泣きべそをかく。三等じゃないと運動靴がもらえない。結局アリは運動靴がもらえなかった。とぼとぼと家路につくアリ。でもその前に絶対見逃してはいけない短いシーンが挿入される。仕事帰りの父親が自転車を押している。その荷台には新しい靴が二足括り付けられているのだ。そうとは知らないアリとザーラ。帰ってきたアリの表情を見て、ザーラは何も言わず去って行く。責める気持ちはない。ただ悲しいのだ。アリは妹をがっかりさせたことに胸を痛める。アリは穴のあいた運動靴を脱ぐ。足のまめがつぶれて痛そうだ。中庭にある丸い池に両足をつけ、縁に腰掛ける。池で飼われている赤い金魚が傷ついたアリの足と心を癒すように近づいてくる。そこでエンドロールが流れる。「えっ? お父さんは帰ってこないの?子供たちの喜ぶ顔は見られないの?」最初は尻切れトンボのように感じたが、そこがこの映画の美点だと気づいた。その後の展開は説明的で余分なものだと言われれば、そうかも知れないと思う。私は新しい靴を手にしたときの子供たちのはち切れんばかりの笑顔と得意げな父親の顔、そしてそれを見守る母親の優しい瞳を容易に想像できるのだから。そして私はその自分だけの想像上の場面を何度も何度も楽しめるのだから。傷んだ足の周りをゆっくりと泳ぐ色鮮やかな赤い金魚たち。青い池との対比が美しい。いたわりとか慰めとか、言葉にするとニュアンスを失いそうなデリケートな感情を、赤い金魚たちはよく表現している。なんという素晴らしいエンディングなのだろう。スクリーンに解き放たれた私の心も一匹の赤い金魚になって、アリの心に寄り添うように泳いでいる。


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